EPISODE 1 「1979」


1979年、夏、初めてアメリカに渡って滞在したのが、ウィネベイゴインディアン居留地(リザべーション)だった。
居留地の中に住む白人の農場で穀物の刈り入れと、肉牛の世話を手伝っていた。
ハードワーカーで毎週日曜日には教会に行く、とても優しい勤勉で善良なアメリカ人の家庭だった。


ある日、お母さんが僕と子供を連れて居留地のお祭りパウワウに連れていってくれた。
おりしも、高校生の英語の教科書でパウワウが取り上げられていたのを読んだ直後だった。


初めて見るインディアンは、子供の頃にさんざん見た映画とは違っていて、疲れて見えた。
古いウエスタン映画ではラテン系がインディアンを演じていることも多かったが、
実際は混血した人が多いとはいえ東洋人と同じモンゴロイドだし、あの羽飾りもつけていない。


「あの人たちは働こうとしない」
お母さんの言葉は印象的だった。
その時点で予備知識のあった僕にはもう理解することができた。
(あなた方がいるから働けないんじゃないか?)
後々、もっと複雑なことを知るようになるが、少年としてそんなふうに感じた。


インディアンの考え方はアメリカのスタンダードとはかけはなれている。
アメリカのスタンダード?
ある日、お母さんは古い新聞を見せてくれた。
太平洋戦争当時、日本海軍の空母がアメリカ海軍に撃沈される報道が一面に出ていた。
それを見せられた僕は戦争のリアリティに感心したのだが、
今思うと、軍属でもないあんな普通の農場の家庭でも戦争で活躍するアメリカ軍の記事を保存しておくのか?
と、その愛国心に少し気味悪い思いを感じる。

アメリカがみんながみんなこうでないにしろ少なくはないはず。
でなきゃ「世界の警察」というフレーズは出てこない。
親切な農場の家族は
敗戦国から来た東洋人の少年に自らが信じ実践している「全世界で最良のアメリカ人の生活」をみせてくれたつもりなのかも知れない。
たしかに悪くなかった。親切にしてもらって楽しいアメリカ滞在だった。


1979年といえば
アメリカンロックのムーブメントが終焉を迎えた年だと思う。ヴァンヘイレンが最後の打ち上げ花火のようだった。
あこがれのヒッピー文化はとっくにいってしまい
70年代前半にジャニスやジミヘンが代表するロックの形は彼等の死とともに衰え、
プログレッシブロック、アートロックでロックの形は出尽くし、アイドル的要素の濃い商業ロックが台頭する。
この年を境にアメリカンハードロックはヨーロッパのヘヴィメタルムーブメントへと移行してしまう。
ちなみに僕が英語を覚えたのはロックのおかげ。



EPISODE 2 「NS 創設まで」